ジョンとヨーコのイマジン日記

キョウとアンナのラヴラブダイアイリー改め、ジョンとヨーコのイマジン日記です。

カイジ24億脱出編:デスゲームの道と光

賭博堕天録 カイジ 24億脱出編 1

賭博堕天録 カイジ 24億脱出編 1

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多くの場合、優れたバトル漫画は主人公陣営の長所と短所を明示する。

桜木花道は身体能力が異様に高いけどリバウンド以外のスキルはほぼ初心者だし、近距離パワー型のスタンドは遠くにいけない。

バトルの種目が超能力であれスポーツであれ料理であれ金融であれギャンブルであれ、強い敵に対してもっと強い技を出して勝つだけではおもしろくするのは難しいので、主人公は強い敵に対して持つ能力でなんとか工夫して勝つことが期待される。

とはいえ、友情パワーで大逆転とか謎のスゴ味で敵の動き全部見切るとかは、全部それだとだめだと思うが、そういうのがまったくないと「何をおいても大事にされる作品内価値」みたいなものや、「主人公たちの成長」がないことに結びついてしまい、狭い盤面で詰め将棋をやっているような窮屈さにも繋がりかねないし、その狭さは作品世界の狭さにも直結する。

さて、『賭博黙示録カイジ』はデスゲームものの嚆矢となった作品である。作品内で独自に考案されたゲームに主人公が巻き込まれて命がけの勝負をして裏切ったり裏切られたり……というフォーマット自体は誰がはじめたと言えるようなものではないが、カイジの直前数年間に目立ったヒット作はなく、後に続く漫画に影響を与えた作品であることはほぼまちがいない。

これらのギャンブル(ゲーム)でバトルする作品の場合、最初からルールが明文化されるので、ルールの範囲内でバトルするのは簡単なようでいて、おもしろくするのは難しい。

野球や麻雀のように、現実にすでにある種目ならルールが複雑でも読者がついて来れるが、オリジナルギャンブルで麻雀のようなルールを説明されたら大半の読者は途中で投げ出すだろう。

反面、すぐ理解できる単純なルールの範囲内で敵の裏をかいて勝つとなると、読者の「なんとなくの予想」の探索範囲がかなり限定されるので、相手のイカサマを見抜いて逆をやるくらいしか手がない。

これはもちろん、決して悪くはない。

しかし、テンプレを作れる作者というのはテンプレを見抜ける作者でもあり、テンプレに飽きやすい作者でもあるのかもしれない。

賭博黙示録カイジ』は「希望の船」編(5巻まで)終了後、カイジがギャンブルに挑むのではなく、カイジ自身が賭けの対象にされる。つまり2つめの勝負で早速フォーマットから逸脱している!

このように、新しい試みがなされ、再解釈もなされ、それでもカイジシリーズは徐々に停滞していった(と、ぼくは思っている)。

裏切ったり裏切られたりはパターン化され、様々な試みは「お約束」に回収されていった。

主人公のカイジ自身がデスゲームテンプレを自覚しており、「命がけの状況をわざわざつくったら人がずるくなるのは当たり前で、それが人間の本質とか言っても意味ない」というようなことを敵キャラの和也に説明する場面もある。

そこで、和也は「では、カイジの思う本質とはなにか?」という意味の反問を行うのだが、カイジはその答えに窮する。

このときのカイジの言いよどみは読者のためらいであり、作者自身のためらいでもある。「問い」がでか過ぎるので答えられないのが当たり前ではあるが……。

福本漫画の勝負では信念が重視される。自分の読みや勘に有り金すべてを賭けないと勝ちはなく、状況に屈して保身に走ったり欲に目がくらんだりしたキャラはたいてい負ける。

この信念は、技術や知性に基づく必要は必ずしもなく、キャラクターのある種の個性が反映されたものになっている。

しかし、このような「信念」を大勝負から離れた日常に持ち帰ってしまうと、ただ単にはた迷惑なとんでもないお騒がせヤローである。

カイジは特に、普段は平凡な(ダメ人間に近い)若者であり、逆境でのみ輝くというキャラクターである。バイトの休憩中にお茶と大福をもらっても楽しむ感性はない。

カイジシリーズは長期連載の結果、命や大金がかかった大勝負に本質はなく(それを仕掛けてくるのは敵キャラ)、かといって日常に帰って幸せになることもできないという袋小路に自ら陥った。

ここから脱け出すのは不可能に思えた。

そんななかで描かれる『24億脱出編』である。

『24億脱出編』の主な展開は大金を手にしたカイジたちの逃亡劇なのだが、そこでは誤った信念(たとえば『キャンプは男のロマン』というような)に基づいて行動する絵的にもあからさまにさえないおじさん(残念ながらおばさんは少ない)が次々とあらわれる。

誤った信念に人生を捧げてしまった人たちが、信念に基づいて行うずれた心理戦が、結果的にカイジたちを助け、カイジたちを追う黒服の裏をかくことになる。

黒服たちもずれた信念でカイジたちを追い詰める。

カイジシリーズが最初にテンプレから逸脱した「絶望の城」編(賭博黙示録カイジ8巻)では、ナレーション(特定のキャラクターに対応しない四角い吹き出しって普通なんて呼ぶの? ナラティブ?)が、「いつも……一本の道を想像するのだ……」と読者に語りかけていた。

カイジシリーズのナレーションは基本的にいわゆる「神の視点」、心理的葛藤や先の展開を把握した三人称で書かれているが、「想像するのだ」は「神の視点」と呼ぶにはあまりに心もとない。センテンスに主語があるとすれば作者の一人称である。

連載当時、この「橋」パートは頭脳戦を期待した読者からの評価は芳しいものではなかったと記憶しているが、この部分は作者がなりふり構わず伝えようとしたメッセージが込められている。

人は孤独でささえあったりもできないかもしれないが、生きた人間が近くを歩いていることがすなわち希望、それが「希望」の必要十分条件そのものだという主張が、読解の余地なくあまりにもそのまんま絵と言葉にされている。

そして、24億脱出編において、ふたたびナレーションは「神の視点」から逸脱をはじめる。率直にいうと、わりとすべっている。それはさながらおじさんのセルフツッコミ、ナンチャッテ😁である。

カイジは「橋」で手にした「希望」の意味を長らく生活のなかに持ち帰ることができなかったが、ようやく新たな道を見出しつつある。

連載の長期化……突っ走った! 展開の冗長な引き伸ばし……突っ走った! 公式パロディ的なスピンオフ作品の乱立……突っ走った!

たどり着いた先は……思えばなんと儚く頼りない希望だろうか……惨憺たる栄光……目を背けたくなるような克己……そして光が示す道のなんと細く険しいことだろう……しかし紛れもなく一度停滞しなければ見えなかった道である。

24億脱出編はグダってる部分もかなり多いので、このままグダって終わる可能性もあるが、しかし、それでもその光は書架からあなたの日々のさえない小さな勝負を照らすだろう。

追記:この文章はもともとbloggerに書いたものです。Zenn(https://zenn.dev/abe2)の方が数式が書きやすいので今後数式が出てくるような記事はZennで書こうと思うのですが、このブログを消すことは考えておらず、読んだ漫画の感想でも載せるのに使おうかと思って転載しました。